羅針盤としての内的キャリア
「何」と「なぜ」
「キャリアを考える」というとき、「将来何になりたいか」つまり「何」について考えることが多いのですが、もう一つ目を向けたいものに「なぜ」があります。
例えば「外交官」になりたい、というときに「いやぁ、もともと語学が好きでして。いろいろな国、いろいろな民族にそれぞれの言葉が、そしてその元とのなる考え方や価値観があるのですよ。それらも踏まえた上で相互理解が図れることが、国と国との関係はもとより民族間の葛藤を乗り越えることにもなると思うのです。そういう場面に、私は立ち会いたいのですよ。それには外交官という役割が最適かと思って」という人もいます。
一方で「日本という国はよい国だと思うのです。美しい国土、互いを尊重しようとする価値観、そしてアニメをはじめとする文化など。これらをもっともっといろいろな国の人に知ってもらいたいと思うのですよ。そうしたことを理解していただくためにも外交官をと思って」という人もいます。
おなじような仕事をしていても、それをやろうと思う背景にある考え方や価値観、その役割を通じて得たいと思っている充実感や充足感の内容、質などは一人ひとり異なっていることが多々あります。そして、その違いが具体的には同じ職場で同じような仕事を担当していても、「いやぁ、この仕事は面白い、やりがいがある」と思う人もいれば、「なんだかさっぱり。とっとと辞めてしまいたい」と思う人もいたりという違いを生み出します。周りからすればうらやましいなぁと思うような仕事をしていたとしても、その仕事に意味も、意義も感じていなければ、つまり「なぜ」の部分が満たされていなければ、「どうしてこんなことをやらないといけないのか」という自問自答を繰り返したり、繰り返しすぎて気分まで落ち込んでもうやる気も活力もなくなってみたり、あるいは答えが出ないので「いっそのこともう辞めようかなぁこの仕事」という話に進んでしまったりするのです。
この「何」に当たる部分を「外的キャリア」(External Career)というのに対して、「なぜ」にあたる部分を「内的キャリア」(Internal Career)と呼びます(この呼び方はE.H.シャイン博士の「キャリア・ダイナミクス」(白桃書房)や「キャリア・アンカー 自分のほんとうの価値を発見しよう」(同)に倣っています)。キャリアを考える時には何になりたいのかという外的キャリアに目を向けがちなのですが、なぜそれなのかという内的キャリアにも目を向けたいところです。内的キャリアを充足できるような外的キャリアであるとき、その仕事はまさに自分にとっての適職といえるでしょうし、そのキャリア(仕事人生)は納得のいくものであることでしょう。
曖昧模糊(あいまいもこ)としている内的キャリア
とはいうものの、この「なぜ」の部分は意外に分かりづらいものです。
そもそもなかなか目に見えません。「何」にあたる外的キャリアは「外的」というだけあって目に見えやすいです(というか、端から見て、外から見て分かりやすいから”外的”なのですけれど)。先の外交官にしてもそうですし、もっと身近な学校の先生だとか、大工さんだとか、お医者さんだとか‥‥その名前を聞いただけで、姿形が思い浮かびますし、「だいたいこんなことやってんだろなぁ」という想像もつきます(その意味では、想像のつかない外的キャリアはないに等しいです。子どもが「YouTuberになりたい!!」といっても親がそれを知らなければ「あんた、なにいってんの」と一蹴されてしまうことがあるのは、親にしてみれば知らない=存在していないものの話だからかもしれません)。
分かりづらいもう一つの理由は、内的キャリアは価値観や関心、得意不得意といったもので、形のあるものではない、もやっとしたもの、観念の世界だからです。なので外からは見えないだけでなく、自身で理解を深めるしかありません。よく知ってくれている人だとか「その道のプロ」と呼ばれる人に「あなたは○○というところが優れていますね。それをいかせる仕事としては✕✕が良いでしょう」などといってくれると、なるほどそうかと思ってその線でやってみようかなと思うかもしれません。「よく見てくれているなぁ」と感じて「他者から見えるではないか」ということになるかもしれません。しかしこれは一方で「そうかも!」と思う自分がいるからです。同じように言われても「な~に言ってんだかまったく‥‥」と思って「知りもしないくせに言うなよ」と感じることもあることを考えれば、結局のところそれを受け容れるか受け容れないかという自分の考え方だったり、スタンスだったりということになっていまいます(もちろん、言ってくれている人との関係性ということもあるかもしれません)。とすると、そうした指摘をどう捉えるのかという自分の内面を自分で探索し、理解を深めておかなければならないということになるのです。ただ、自分のことを自分で考えるというのがなかなか難しいもので、考えているようでいて堂々巡りというか、いつものパターンに陥ってたりするのです。キャリアカウンセリングが役に立つのは、他者が聞いてくれていることでこの堂々巡りを避けられるという点も多いにあります。
さらに、分かりづらい3つめの理由は、価値観だとか関心というのは変わっていくということです。当然です。これまで知らなかったものに出くわせば、それに伴い新しい感覚が引き出され、それに合わせて価値観や考え方は変わっていきます。それが成長するということです。幾つになっても成長がやむこととのない人がいるのは、そうした変化に開かれているからです。
なくてはならないものなの?
自分にとっての「内的キャリアは何か」-それが分かっていないとだめなのでしょうか?
そんなことはありません。分からなくても、心当たりがなくても生きていけますし、働いていけます。
ただ、働くということでいえば、労働基準法の法定労働時間に基づくなら週40時間、寝ている時間を含めてもその4分の1程度は働いていることになりますし、もっと多くの時間を「労働」に費やしている方も多いかと思います。そこ多くの時間を過ごすときに、なにがしかの面白さだとか、やりがいだとか、意味だとかというのがあった方が、全くないよりはよいんではないでしょうか。
もちろん、特に組織の一員として仕事をしていれば、担当業務は選んだわけではないし、そもそも選べるわけでもなかったりします。そこに意味だとか意義だとか、やりがいだとかといわれても・・・と感じられることでしょう。それは致し方のない面があります。そもそも組織の中で担当する業務はそこで働く人、その人のために準備しているわけではありません。経営していく上で「やらなくちゃならないことがある」ので「これやってね」と割り振っていることがほとんどだからです。もちろん人を見て業務分担を決めるということはありますが、基本的には業務があってそれを担当してもらう人がいるのであって、人がいるから業務を割り当てるのではありません。
ただ、そうした上から降ってくるような仕事であっても、その中になにがしかの面白さだとか、興味関心を引くものだとか、これ得意なんだよねと思えるものだとか、ちょっとばかりでもそうしたよいことがあったら違ってくるのではないでしょうか。「この仕事は天職だ~」と思っていやっている人だって、担当している業務が100%楽しいわけではなく「できればこれは避けたい」「ここは自分でやらなくていいなら人に頼んでしまいたい」というところはあるものです。とすれば、できるだけ面白いと思えるような業務、あるいは仕事の場面を増やせるようにするというのも一つの方法です。今やっている仕事の中にそうしたものはないでしょうか?
あるいはもし、「AとBの仕事があるけどどっちやりたい」みたいに選択のチャンスがあるなら、そこですかさず少しでも内的キャリアに結びつくようなことを選べるとよいはずです。ましてや上司と面談する機会があれば(公式の面談でなくても、ちょっとしたお茶の時間だとかでもよいのですけれど)、「実は私こんなことを考えてましてね」と情報をさりげなくインプットしておけば、次回はそっちの方の業務が回ってくるやもしれません(サブリミナル効果もあるかもしれませんよ・・・)。
そもそもキャリアは長い期間の話ですが、その間には幾多の選択の場面があります。大きなものもありますが、小さなものもたくさんあります。その選択のタイミングで「少なくとも今の時点でははこっちかなぁ」というのが分かっていて、そちらを選べるとより良い方へ少しずつでも変わっていきます。そうしたときの方向性を示してくれるのが内的キャリアなのです。大海原を進むときに「どうやら自分の行き先はこっちの方かも」という方向性を示してくれる、羅針盤のようなものと言えるかもしれません。
一直線に目的地へ向かえることもありますが、浅瀬があるので座礁しないように迂回することもあるかもしれません。それでも「あぁこっちの方向へ向かっている」ということが分かると安心できます。その意味で羅針盤となる内的キャリアを探索しておくことに意味はあろうかと思います。